須坂新聞調査隊2
須坂の道はなぜ分かりづらい?
須坂市外から訪れた人から「須坂市の道は分かりづらい」という声をよく聞きます。駅前や市街地に変則的に交わっている交差点が多く、迷ってしまい、思った場所に行くことができない―など。須坂市まちづくり課や市誌編さん室によると、それは須坂のまちの成り立ちや扇状地に位置する地形が大きく影響しているそうです。
中心市街地のある百々川扇状地は、南原町東信号や福寿荘の辺りを扇の要、西に流れる百々川、東にそびえる坂田山・鎌田山を扇の両端にして、その間を扇形に西北に広がっています。このため昔から道路もそれに沿って放射状に造られるようになったようです。
一方で、古くから北信濃や上州、善光寺などに通じる谷街道(国道403号)、仁礼道(大笹街道、国道406号)、高井道(草津道、主要地方道須坂・中野線)が通り、扇央部で交差していました。それが現在の八十二銀行須坂支店西側の中町信号の十字路です。
このため須坂は交通、物流の要衝として、江戸時代ごろから中町を中心に十字形に町が形成されました。南東の現在の奥田神社(常盤町)一帯には、藩主堀家の居館や武家屋敷も置かれました。
明治時代になると製糸業の発展で都市化が急速に進み、十字形の町の周辺に住宅や工場などが造られるようになりました。当時はまだ都市整備計画はなく、小路が無秩序に拡幅されました。
大正11年、それまでの中心市街地の西側に長野電鉄須坂駅が開設され、駅を中心とした都市整備が始まりました。それに伴って新たな幹線道路も整備され、駅を扇の要にして、中心市街地方面に向かって放射状に、東の芝宮方面に末広町通りが、東南の臥竜山方面に平和町通り・金井原通りが、それぞれ設けられました。
合わせて、扇状に延びる両道路を結ぶように宗石町通りなどが設けられたり、同様に国道403号が通りました。中心市街地とを結ぶ道路も複数新設されました。さらに、それらと変則的に交わるように、須坂駅南側から国道406号が中心市街地に向かって通るようになりました。
その結果、放射状に整備された道路が須坂駅方面からと、南原町東信号方面からぶつかり合うようになり、その間に中心市街地が挟まれる形になりました。こうした複数の要素が重なって、須坂の道を複雑で分かりづらくしているようです。
近年、須坂市ではこうした道の分かりづらさを逆手に取って「巨大迷路の町」として観光PRしたり、町歩きなどのイベントを開催するなどしています。