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須坂新聞調査隊6


高山村はなぜ「一茶ゆかりの里」?

 高山村には俳人小林一茶の作品や資料を展示した「一茶ゆかりの里一茶館」があります。一茶といえば生まれ故郷の信濃町柏原が頭に浮かびますが、なぜ高山村がゆかりの里なのでしょうか。
 それは高山村が俳句が盛んな地域で一茶の門人が多く、宿を提供するなど温かく迎え、熱心に教えを求めたことから、一茶が晩年に頻繁に訪れて滞在し、多くの俳句を詠んだり、門人を指導するなどしました。そのため、村内には一茶の3大作品の1つといわれる「父の終焉日記」など貴重な直筆の作品が数多く残り、全国的にも一茶研究資料の宝庫といわれています。
 小林一茶は宝暦13(1763)年に柏原に生まれました。「我と来て遊べや親のない雀」といった有名な俳句や「おらが春」などの作品を残し、松尾芭蕉、与謝蕪村と並ぶ江戸時代の俳人として知られています。15歳の時に江戸に奉公に出て若いころから俳句を学び、修行のため足かけ7年も西日本を巡り歩いたりもしました。
 50歳で帰郷した一茶は自ら門人のいる地域を回って指導しました。高山村(高井野)へはその前の47歳の時に初めて訪れてから、65歳で亡くなるまで約19年間にわたって行き来し、分かっているだけでも185日宿泊しています。
 友人の豪農滝沢可候(水内郡三水村、現在の飯綱町)の弟久保田春耕が紫に住み、俳句をやっていたことから文化6(1809)年4月25日に初めて高山村を訪問しました。その後も一茶は春耕から提供された離れ家を中心に、門人と交流、指導しました。隣の小布施町にも多く滞在しました。高山村や小布施町を拠点に善光寺以北の門人たちの巡回指導にも当たりました。
 当時は庶民の間に俳句が広まり、多くの人がたしなんでいました。高山村は長野市長沼と共に、北信地方でも特に盛んな地域で、村内には俳句愛好家グループ「高井野連」などがありました。高山村の一茶の門人は春耕・成布夫妻をはじめ、中村皐鳥、梨本稲長、梨本牧人、善哉山士、臼田野僕など20人ほどいたようです。妻や子を亡くすなど家庭的に恵まれなかった一茶を手厚くもてなしました。そうした村人の優しさが、一茶が足しげく高山村を訪れた理由の一つだったようです。
 一茶の作品の中には高山村で過ごしたことなどを書いた記述が数多く見られます。また、門人宅には「父の終焉日記」や「浅黄空」「俳諧寺抄録」などの作品や、書簡、扇面、付け木に書いたメモなど一茶直筆の遺墨数十点が伝わったほか、一茶にかかわる資料が多く残されており、千本松の天満宮には一茶が自ら筆を執った俳額が奉納されていました。それだけ一茶と高山村の関係は親密だったようです。
 一茶館にはそれらの品々が展示されています。久保田家の離れ家もほぼ当時の姿のまま移築されています。床の間の造りや屋根裏の土壁など建築学的にも珍しく、貴重な文化財といわれています。
 高山村ではこうした特徴を生かして、俳句文化の伝承や地域活性化などにつなげようと、一茶を学ぶ会や、一般、子どもたちを対象にした俳句大会を開いたり、村内各所に一茶の句碑を建立するなどしています。最近では海外で俳句が注目されているほか、国内でも女性など俳句人口が増え、再び盛んになりつつあります。
 元一茶館館長で一茶研究家の森山忠三さん(須坂市南原町)は「一茶にとって高山村は心の故郷ともいえる安らぎの地だった。一カ所にこれだけ多くの資料が保存されているのは他に類を見ない。俳句に関する熱意は一茶の没後も脈々と高山村に受け継がれ、今も俳句に心を寄せる村民が多い。大切に継承してほしい」と話しています。

〔写真説明〕小林一茶が高山村を訪れた際に滞在した久保田家の離れ家。今は一茶館に移築され、ほぼ当時の姿のまま残されている

 

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