須坂新聞調査隊7
ことし開池80周年迎えた竜ケ池~住民の手で造成「山紫水明」の地に
須坂市民の憩いの場臥竜公園にある「竜ケ池」はことし開池80周年を迎えました。昭和初期の不況の中、多くの住民の手によって造られた人工池です。当初は現在より面積が小さく、北側に第2池「心字池」がありましたが、拡張工事で2つの池が一緒になり、今の姿になりました。竜ケ池の造成により臥竜公園は確たる名勝、地域のシンボルとなりました。竜ケ池の歴史についてあらためて調べてみました。
■「臥竜」の始まり
臥竜公園の名前の元になった臥竜山は、明応2(1493)年に興国寺(南原町)を開山した天英祥貞和尚が、山の形から名付けたのが始まりとされ、それまでは「小山」と呼ばれていたといわれています。
■臥竜公園建設
明治、大正時代に須坂は県内有数の製糸の町として発展しました。そこで、須坂町は住民や製糸工場で働く人々の休養や健康増進、学習のための施設として公園の建設を計画しました。
日本初の林学博士で東京・日比谷公園などを手がけた本多静六東京帝国大学(現東大)教授に設計を依頼しました。すでに名勝として知られていた臥竜山一帯を公園として整備することなどが示された「須坂町公園設計案」が大正15(1926)年に町に提出されました。これを基に翌年から建設が進められました。
■不況での竜ケ池造成
その中でも竜ケ池は公園の景観面はもちろんのこと、ため池として地域の農業用水、水防の機能も備えるなど重要な意味を持っていました。
公園建設は昭和2(1927)年から5年にかけて、臥竜山の砂防工事や遊歩道、道路、あずまやの整備などが行われ、続いて池の造成に着手することに。しかし、世界恐慌で糸値が暴落し、製糸工場が倒産して多くの失業者が出るなど須坂町は大きな打撃を受けていました。財政的に大変厳しい状況でしたが、町では失業者対策事業として同6年に竜ケ池の造成工事を実施しました。
造成地は窪地で、主に湿地と桑畑でした。工事は土を掘って周囲に盛り上げて道路兼土手(現在の桜並木)を築いたり、水の浸透を防ぐため、池底に粘土を張り込んで木づちで打ち固めるなどしました。池の深さは1~6mで、まだ重機のない時代だったので、作業はほとんど人の手で行われました。合わせて弁天島も設けられました。島の造成には臥竜山の石や岩が用いられ、運搬など人手が足りず、小山町や北原町の住民も作業を手伝いました。
当時の村松堯広助役の回顧日誌によると、1日約120~130人、延べ約6,500人が動員され、約3カ月という短期間で完成。工事の様子を「労務従事者が監督員の心を心とした活動は、雨中さながら戦場の観を呈するほどの激務を敢然猛進せられたるは涙の感謝なり」「不況のドン底においてこの種の事業は正に歴史的壮挙たるを失わず。四囲環視の裡、町民はかたずをのんでその成功を祈る」と記しています。
7月23日に開池式や園遊会、弁天社遷座祭が行われ、善光寺平一帯から多くの観光客が訪れ、にぎわったそうです。
■2つの池を統合
竜ケ池は当初、現在の池中央に架かる臥竜橋から南側(動物園側)部分だけでした。しかし、周囲の水漏れやわき水が目立ったことから、対策として翌月に急きょ、北側に第2池「心字池」が造成されました。心字池は面積が小さく、市民から貧弱だとの声が多かったことから、同8年に2つの池の統合と拡張工事が行われ、ほぼ今の竜ケ池の姿になりました。同じ年、住民からの寄付で桜並木も植えられました。
設計案には「龍の池」と記されていましたが、ほどなくして「竜ケ池」にあらためられました。また、竜ケ池ができるまでは「臥竜山公園」と呼ばれていましたが、完成を機に「臥竜公園」に改称されました。
竜ケ池の完成は臥竜公園を名勝として決定づけました。以前にも増して多くの人が訪れるようになりました。戦前には屋形船が浮かび、華やいだ雰囲気だったそうです。
同7年に開池1周年を記念して花火大会が開かれました。これが須坂の花火大会の始まりで、以降、長く続けられ、今は百々川緑地で行われていますが、竜ケ池の印象が強い人も多いのではないでしょうか。池北側にあるアヤメ池は元々は養魚場として同13年に設けられ、釣り堀にもなっていました。
■戦争の荒廃から復旧
戦時中は臥竜山に軍事目的の横穴が掘られるなど臥竜公園は荒廃しました。終戦後、町では戦争ですさんだ住民の心を癒し、復興、平和の象徴として臥竜公園の復旧に力を入れました。池底を整えたり、弁天橋の架け替え、臥竜橋の修理などを行い、同24年ごろにはほぼ以前の姿を取り戻しました。
同37年に竜ケ池開池30周年を記念して動物園、同56年に50周年を記念して水族館が開設されました。同42、43年には老朽化のため大規模な漏水防止工事が実施され、水を止めて池の底に防水シートを敷き詰めるなどしました。
■農業・生活用水にも
竜ケ池の水は農業用水としても利用され、小山町や屋部町、八幡町、境沢町の田畑を潤してきました。開池したころはまだ上水道の整備がなく、洗濯や風呂などの生活用水にも使われていました。夏には池で泳ぐ人がいたり、冬は全面結氷して、子どもたちがスケートをして遊んだそうです。
池の水は当初は北ノ沢用水により百々川から引き入れていました。酸性水によって池底の土と粘土を固め、貯水性を高めるとも考えられました。そのため魚はすんでいませんでした。現在は灰野川の水のみ引き入れていて、さまざまな魚が生息するほか、水生植物、野鳥が見られ、動植物の観察、自然体験などの場にもなっています。一方で、近年は池の水の汚れが問題になっていて、小山小児童らが浄化活動に取り組んでいます。
臥竜公園近くに住む桜井幸男さん(94、小山町)は「昔は造成地一帯は雨が降ればすぐに水がたまって作物ができず、地元の人は『池畑』と呼んでいた。開池当時は中学生で、工事はほぼ毎日見ていた。男の作業員がくわやスコップで土を掘って運び、女の作業員数人が並んで、歌を歌いながら杵(きね)のようなものでその土をたたいて固め、土手を築いたりしていたのを覚えている。畑だったので土が柔らかく、水漏れの心配があった。あれだけの水をためて、もし決壊したら大変なことになる。今考えるとよくできたものだと思う」
「竜ケ池ができたことで山紫水明の地になり、四季を通じて人が来るようになった。花火大会や盆踊り、縁日などが開かれ、若いころは何かあれば臥竜公園に出かけていた。桜や松の名所で、山、百番観音もある臥竜公園は一つの文化」と懐かしそうに話してくれました。